二度目の警官等の遺体発掘は11月14日だった。
11月15日『国民新聞』「又も荒川放水路で 死体発掘の怪行為」は、「十四日午後一時より平澤等を埋めた現場である、荒川放水路四ツ木橋下半町の付近三カ所に現に埋めてある死体をまたもや発掘して何れへか搬入した」と報じる。亀戸署高等係警部補以下巡査十九名が人夫に変装し、寺島署の警官六十名が四ツ木橋上から一間おきに警官線を張っての発掘だった。遺体は十三個の棺にまとめられ、トラック三台で運び去られた。
11月16日『読売新聞』は、日本人14名の遺族の抗議に、「『刺殺されたことは天下周知の事実で今更その惨状やその場所で骨を掘るため、他の百数十名の骨をかき回すことは忍びないことだ』というのが警視庁側の言い分」と記す。
11月16日『時事新報』は、「平澤計七氏等の骨と共に、荒川放水路土手下に埋められた遭難鮮人数十名の死体は、別項の通り警視庁白上官房主事の命令により改葬手続をした上、十四日に発掘してしまった」と報じる。
さらに、11月20日『東京日日新聞』では、「惨殺死体全部を処分した小松川町役場吏員の証言により、荒川放水路の埋葬現場には日本人の死体は一つもなく総て鮮人のみ」と報じる。
同日付の『国民新聞』でも、「鮮人の骨だと証人が出て又騒ぐ 平澤等のではないと掘った人夫が証言」と、右のように同様の記事がある。
朝鮮人犠牲者の埋葬先について、警視庁は「日鮮親善」のため日本人との合葬を主張し、総督府は朝鮮人のみでの埋葬と見解が分かれていた。11月18日の『国民新聞』では、寺島の共同墓地に日本人朝鮮人ともに仮埋葬中で、正式な朝鮮人遺骨の埋葬先について、鶴見の総持寺、被服廠跡への合葬などがあがっている。この後、追跡報道はとぎれ、遺骨の行方はわからないままである。
最後にガリ版刷り内部資料、「極秘 震災当時ニ於ケル不逞鮮人ノ行動及被殺鮮人ノ数之ニ対スル処置」(朝鮮総督府警務局『大正十二年十二月 関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況』所収 *注1)を紹介したい。
この(2)は殺害された朝鮮人数として248人(内務省調査1923年10月22日)とし、政府調査として知られる司法省調査233人(同年11月15日付。注2)をあげていないので、10月22日から11月15日の間に、書かれたものではなかろうか。
注目したいのは、犠牲者の遺体処理方針を示した「(3)処置」である。三・四はセットで、「被殺者」の姓名がわかり遺族が申し出れば遺骨を引き渡すが、遺族以外には渡さない趣旨である。
では、「被殺者」の姓名や遺族がわかるよう努力することに力点があるかといえば、二「遺骨は日本人朝鮮人と判明しないよう処置する」・五「(加害者が)起訴された事件で、朝鮮人に被害あるものは、速やかにその遺骨を不明の程度に始末する」方針だった。これでは「未だ遺骨引渡を申し出たる遺族なし」は当然である。
私たちは各新聞報道で百~百数十人とされる朝鮮人犠牲者の遺体が、荒川・旧四ツ木橋下手にあったこと、厳しい警戒の下で少なくとも二度にわたりまとめて運び去られた経過を追ってきた。旧四ツ木橋での遺体発掘は、このような日本政府の朝鮮人虐殺事件の証拠隠滅方針があり、かつ亀戸事件犠牲者遺族らが遺体発掘を試みようとしたため、運び去るまで徹底して行われたのだと考える。
私たちが主に調査・聞き書きをしてきた東京の南葛飾郡西部でも、朝鮮人虐殺犠牲者の正確な人数には言及できない。が、加害者は民間人のみとする司法省調査の犠牲者233人、うち「四ツ木橋付近」2件3人、「吾嬬町荒川放水路堤防」1件1名(殺人未遂1件1名)のみとする数字は余りに少ない。この数は衆人環視の中で行われた軍隊による殺害は不問にしつつ、起訴し公判が維持できたのがこれだけだったと理解するべきと考える。