追悼する会編『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(1992年)より

警視庁『大正大震火災誌』1925年

                                                       寺島警察署報告より

大川(仮名)

22~3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四ツ木橋の下流の土手下だ。西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。1挺か2挺の機関銃であっというまに殺した。それからひどくなった。四ツ木橋で殺されたのはみんな見ていた。なかには女2~3人いた。女は‥・ひどい。話にならない。真っ裸にしてね。いたずらをしていた。朝鮮人を連れてきたのは向こう岸(葛飾側)の人だった。寺島に連れていかれる前に四ツ木橋の土手下で殺された。兵隊は震災から2~3日してきたが、歩きで騎兵ではなかった」

 

田中(仮名)

「1個小隊くらい、つまり20~30人くらいいたね。2列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。2列横隊だから24人だね。その虐殺は2~3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。

朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち会いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ。それは何回にもおよんでやった。だから四ツ木橋のところを掘っても骨は出ないですよ。自分は防護隊に所属していたため、憲兵隊といっしょに何回も立ち会っているから知っている。大震災の騒動の時は、青年団の役員をしていた関係で憲兵隊がずいぶん家に来ていろいろ聞いていた。このあたりには朝鮮人がけっこういた。彼らの素行、日常の行動はどういうふうかずいぶん調べて歩いていた」

 

旧四ツ木端写真
旧四ツ木端写真

旧四ツ木橋

大正11(1922)年架橋

昭和44(1969)年廃止

(出典:『区制40周年記念・

墨田の今昔展』すみだまつり

実行委員会・墨田区文化観光協会)