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歴史の風化に抗して

西崎 雅夫 墨田区在住40代

大学生のとき英米文学科に在籍していた私は「隣の国の言葉を知らないのも変だな」と朝鮮語を習い始めた。そこでは在日朝鮮人がいっしょに学んでいた。初めてその存在に気づいた。彼らとともに日朝近現代史や在日朝鮮人の現状をお互いに報告しあって学習した。

大学で姜徳相先生の授業があった。知らない事ばかりだった。とりわけ関東大震災時の朝鮮人虐殺の詳細に渡る講義は、日本という国や自分の生まれ育った東京を見る目を変えた。

そんなとき、「荒川放水路の河川敷に虐殺された朝鮮人の骨が今も埋まっている」という話を聞いた。旧四ツ木橋という場所は、私が中学生の時にサッカーをしていた河川敷グランドの少し下流だった。何も考えずにすぐ会の結成に参加した(体が反応したという感じだ)。その後、虐殺に関する多くの証言を聞き、文献を読み、事件の広さと深さを学ぶとともに、日本人が何をし、また何をしてこなかったかを知った。

遺骨の発掘が物理的に難しいとわかってから、河川敷に追悼碑を建立するべく、国や墨田区と交渉し、2000年には「陳情」という形で墨田区に協力を要請した。その回答で 「旧四ツ木橋付近で虐殺があったことは公的文書では確認できない。したがって協力できない」と聞いたとき、唖然とした。山ほどの資料を私達から受けとりながら、山ほどの証言者がいる地域で、80年近くたってなお、真実を遠ざけ事件をなかったことにしようとする姿勢。そんな町に今私は住んでいる、多くの在日韓国・朝鮮人とともに。

歴史は風化する。加害の歴史はその風化を加速させる力が強く働く。でも被害者側の心の痛みは決して風化しない。そのことがわからないと、人の痛みがわからない人間になってしまう。それは最も恐ろしいことではないだろうか。今必要なのは真実と向き合う力だ。そこから共に生きる未来が始まる。追悼碑はそのスタートラインになるはずだ。

 

「負の歴史」を「平和の礎」へ

シン ミンジャ

慎 民子 墨田区在住50代

私が事件を知ったのは、30年も昔、20代初めの頃。大きなショックは恐怖でもありました。「普通の人たちが殺した」事実は、今後何かあったら私や家族や将来得るであろう私の子どもたちを、日本の友人や近所の知り合いが殺すかもしれない!今親しくしている日本人たちとの間の大きな壁を、目の前に見た気がした。

私は日本の学校に通い日本の教育を受け、日本の社会に生きていた中での疎外感に押しつぶされそうになっていたので、ことさらに敏感だったのかもしれない。

そして、人が殺しあったり、蔑みあったりしない社会に生きたいと願い、韓国人である事を明らかにし、「加害の側にならない人たち」とつながり生きることにした。

その10数年後、機会あって墨田で多くの日本人と出会った。彼らの「関東大震災事件は日本近代史の一部」「在日の人権問題は日本の法律の問題だ」との言葉を聞いたときの喜びは大きかった。初めての出会いだった。私は多くの仲間を得て、ごく自然に「追悼する会」に参加し始めた。

 

事件を知った人たちが、多くの犠牲者の無念な思いをあらわし追悼を続けてきた。そして、今「追悼碑建立」に思いを集結させようとしている。それは、民族も国籍も超えた、事件を憂える人たちの共通の思いである。

過去は現代を生きる者達にまでも、恐怖や悲しみや怒り、憤りを与える力を持っている。だから未来の子どもたちに「追悼碑の建立」が喜びであり、誇りに思ってもらえる事を確信する。次の世代の若者たちに「負の歴史」を「平和の礎」に昇華させる「碑」を贈りたい。

皆さんのご協力をお願いします。